わが庭

6月30日現在の菜園の様子です

左の木がイチジク、その下にプリンスメロン、左下はオオバです。手前に三本立っているのがオクラ、その左上がピーマン、その後ろがハヤトウリ、右手手前の木は花桃、その先ミニトマト、その下にバジル、ミニトマトの奥がゴーヤ。写真では見えないところにキュウリ、ナス、インゲン、サンチェ、シシトウも植わっています。計15品。ちょっと多すぎかも…

第二回書評「卑弥呼以前の倭国五〇〇年」大平裕 PHP新書 860円

弥生時代と言えば、例えば、ブリタニカ国際大百科事典では「日本において縄文時代に続く時代で,弥生土器が使用された時代。鉄器や青銅器などの金属器,石包丁などの大陸系磨製石器,水稲耕作などによって特徴づけられている。その開始は前3~2世紀頃といわれ,終わりは3世紀。『漢書』や『魏志』 (→魏志倭人伝 ) によれば,弥生時代の後半には数十の国に分かれ,国王がおり,互いに争って統一国家への胎動を続けた時代でもあった・・・」と言うのが今までのイメージ。学校で教わったかも…こうした、弥生時代についての理解が最近大きく変わってきている。
国立歴史民俗博物館のグループが2003年に発表した、最新の精緻なC14炭素年代測定の結果、弥生時代の始まりが、紀元前千年あたりまで遡ることになった。
弥生時代とは、紀元前3世紀ごろから紀元後3世紀までの600年位。朝鮮半島経由で薄手の土器と水田耕作、そして金属製品が日本列島にもたらされ、短期間に急速に普及し、縄文時代の生活や文化を一新したと学んだ。
今回の測定結果により、時代区分が一気に千二、三百年間に伸びて、中国の殷末、周初に遡ることになった。また。この間新たな遺跡の発見・発掘も進み、出雲あたりから銅剣や銅矛、銅鐸がが大量に見つかったり、九州北部に銅鐸メーカーの集積地が見つかっている。
CAMEが学校で教わってきた知識は使い物にならないくらいボロボロ。
今や弥生時代について見直しが求められている。そして大変残念なことでもあるが、戦後の古代に対する歴史認識の狂いはちょっと酷かったんじゃないかい?随分、余計な努力を重ねてきたようだ、弥生時代の国際情勢や倭人の動向については、80年前の戦前の歴史学の記述の方が正しかったということも沢山分ってきている。それなのに、いまだに戦後史観に拘っている学者さんが多くて、学問体系化が追い付いていない。
中国の殷や周の時代には未だ日本列島では水田耕作をやっていなかったことが前提だったが、新しい年代測定の結果、倭人はこの時代に水田耕作に着手していたわけで、中国大陸や朝鮮半島北西部(きし朝鮮、衛氏朝鮮、楽浪郡等)とのお付き合いの中身も再検討が必要になっている。
大平氏は学者ではないからか、大胆に踏み込んで自説を展開しており、好感が持てる。彼は、中国の古文書の見直しと中国、朝鮮半島、日本列島と広範囲にわたって現地に赴くなどして当時の遺物を調査している。とりわけ、山海経や明刀銭に着目したことに敬意を表したい。
なにせ、弥生時代がBC千年まで伸びたのだから、主要な文献、発掘調査の成果物についてもゼロから見直して、全体を再構築をする必要があると思われるのだが…今の小粒な学者さんに彼の爪の垢を飲ませてやりたい。
しかし、氏とCAMEの見解が違う部分も多い。一つだけ挙げれば卑弥呼はヒメミコであり(ここまではCAMEも同意する)だから天照大御神であるなどと言う主張は記紀や魏志倭人伝の記述との整合、時間的なズレなどについて何も触れていないので、とうてい受け入れられない。この手の主張を忍び込ませるから、プロの学者は大平氏を相手にしないのだと思う。
この時代の倭人の動向が日本人と日本国のルーツを固めたとcameは思っているので多くの人たちにもっと関心を持ってほしいところだ。
今のところ、プロの学者さんからは弥生時代の全体像の提示が見られない。彼らは、自説と新たに出てきた新事実のつじつま合わせに汲々としているのではないか?
縄文時代晩期に日本列島の人口が減少したという推計があるが、弥生的生活と縄文的生活が長く並行していたと思われるので、再検討が期待される。この部分はプロの方たちも飯のタネになると思う。

第一回書評は…「気候で読む日本史」田家康 日経ビジネス文庫 800円

この本は、歴史学で軽視されてきた気候を柱にして日本の歴史を俯瞰している。そこが気に入って買った。特に干ばつや冷害を取りあげて政争・政変との関係、その時代の国やそれぞれの領主たちの工夫や努力、対策が次の時代形成にどのような影響をもたらしたのかなどに興味があった。

日本列島では2千年以上かけて気象変化への対応を重ねた。その結果、現代、干ばつの対策はほぼ出来上がったが冷害への対応は今でも難しいということが分った。地球温暖化は少なくとも日本にとっては大きな問題とは言えないようだ。

さて、

とても残念なのは本文7ページ「はじめに」において、日本の春・夏など季節表現は朝鮮半島由来であると書いてあることだ。
このトンでも学説はとっくに誤りであることが確認されているにもかかわらず、本書の巻頭に堂々と書いてあるため、本文の内容全般に「本当かいな?」という疑念が涌いてしまう。残念なことだ。
朝鮮半島の人たちが言う「古代語」は日本の平安時代以降の言葉に相当する。それ以前の朝鮮の口語は良く分からないのが実態。  だから、日本語(古語)から朝鮮語に転化したと論じえても、逆は議論不能なのだ。

大和言葉は万葉仮名として、読み方を含めて今に伝わっている。
一方、朝鮮半島では、1446年に「訓民正音」が作られるまで、自分たちの文字はなかった。残されている文章は全て漢字を使ったもので、それ以前に実際に朝鮮半島で話されていた言葉=口語については「漢字の当て字」がわずかに残っており、そこから推理したもので、本当のところは分っていない。しかもこの「訓民正音」も20世紀になって、日本の慶応大学などのグループが文法を整備し、新聞を発行するなど普及活動をするまで、殆ど埃をかぶっていた状態であった。この事実を、朝鮮半島の中では強く否定して自力で普及させたと主張する人もいるようだが「歴史的事実から目を背けている民族には未来はない」とどこかの元大統領も言っていた。

古代、半島では大陸から流れてきたいくつかの部族集団が暮らしていた。彼らがそれぞれ別々の言葉を使っていたと考える方が自然だ。半島の共通語らしきものができてきたのは日本の平安時代以降。朝鮮の歴史書『三国史記』が日本書紀に大幅に遅れて1145年に編纂されたのも、朝鮮の共通語が確立していなかったことと関係しているのかもしれない。

楽浪郡が置かれていり衛氏朝鮮があったころ、朝鮮半島の南部には海洋民の和(倭=チビ)人が住んでいて、狩猟民の濊(ワイ=ションベン臭い)人と交流と言うより混住していたと推測できる。倭=チビは海の幸、濊=ションベン臭いは山の幸を持ち寄り、仲良く取引したり交雑して暮らしていたことだろう。

そこでは、漢や倭・濊などの言葉が入り混じったクレオール語が使われていたのだろう。
好太王の碑文や漢書地理史や山海経など古代中国の文献や朝鮮の史書『三国史記』『三国遺事』を素直に読み、朝鮮半島南部にある日本列島から持ち込まれた前方後円墳などの遺跡や各種の遺物を見れば明白なのだ。学者が金儲けに目がくらんで、珍説を売り込んでいるうちにどんどん阿保になって訳が分からなくしてしまっただけの話だ。

今から20年位前、日本語の起源は百済語・朝鮮語であるといったトンデモ本が書店に並んでいた。

李 炳銑や伊藤高雄を無批判に引用するようでは、著者の歴史への基本的な素養が疑われる。
著書全体の内容がしっかり書き込まれているだけに、本当に惜しい。

さて 雨読 ですが…

「雨読」とは晴耕雨読の後ろ半分。雨の日には家で読書するなど 世間の煩わしさを離れて自由気ままに生きる様をいう。 晴れた日は外で活動し、雨ならば内にて読書などして教養を積む。 こんなイメージだが…

現実のcameは病とは加齢に勝てず、少し読み進むと睡魔に負けてしまう。そして、昨日読んだことを覚えていない。すでに読んだ本をまた買ってしまう…というひどい状態ですから…あらかじめ断っておくが…本の内容全般を評価し、どなたかに推奨するための「書評」ではなく、読み進める中でcameの心に引っかかったことを書き連ねだけです。「雨読」に挑戦するなら、年を取って病などに取りつかれる前から始めるのが良いと思うぞ。それから、貧乏なので高額な本は基本的に買いません。主に文庫や新書の類です。書評も自ずと安く気軽に入手できる本に限られます。

 「雨読」の対象として何故…①この本を読んだのか、②どの部分が印象に残ったのかを外さないで書くことを心がけて… さて、初回は「気候で読む日本史」田家康 日経ビジネス文庫 です。

自宅の前に菜園スペース20坪足らずを確保したのが3年前の12月

建築残土の瓦礫を除いて、牛糞や培養土、肥料を入れた土づくりから始まった。

この春は、ナス5本、キウリ4本、プリンスメロン2本、ミニトマト赤と黄色各2本、ピーマン3本、シシトウ2本そして、バジル、ルッコラ、サンチェ、サヤエンドウ、イチゴ、オオバなど少々。植木はイチジクと花桃。スミレの鉢植えを8つ並べています。花屋からもらったアスターの種が育ってきて、そろそろ花芽が着くのかな? 試行錯誤の繰り返しですが、ミニトマトのコンパニオンプランツがバジルだと木村植物園のスタッフに教えてもらったり、連作障害について近所の同好の先輩に教わるなどしながら春の作付け計画を立てました。夏秋冬を見通しつつ季節に合った作物を植えるよう心掛けています。春用の種を秋に蒔いてもうまく育たないとか、土壌のphを研究しないでホーレンソーを作ろうとして失敗したり、オクラも2年収穫なしなどありましたが、昨年のミニトマトは12月半ばまで近所に配るほど収穫があったり、プリンスメロンが1苗で4~5個と聞いていたのに10個位取れるなど…これがビギナーズラックと言うやつか?…励みになっています。

植物は研究・努力を裏切らない。人間と違って。

このブログでは「晴耕雨読」と題してcameが始めた菜園と本の感想を書き連ねる予定です

晴耕雨読と言うと晴れた日には田畑を耕し、雨の日には家で読書すること。
世間の煩わしさを離れて自由気ままに生活することで、悠々自適として自然のままに生きる様をいう。 世間のわずらわしさから一歩引いた隠遁生活。晴れた日は外で活動し、雨ならば内にて活動する。無理しないで、その日、その時の状況を受け止めて暮らしていく、といったイメージがあるようです。
畑づくりを始める前はcameもそんな風に受け止めていました。まだまだ晴耕雨読と言える状態ではないものの、実感としては少し違う。
まず「晴耕」だが、畑づくりをして3年目。以前は特定の人を除いて殆ど話をしなかったのに、通りすがりの人や近所の人たちと挨拶し、言葉を交わすようになった。いろんな人から苗や肥料などの差し入れがあったり、獲れすぎた野菜などは近所に配ったりするなど人との出会いが広がって、隠遁生活どころじゃない。現在、10種類以上の植物を同時に栽培し、秋野菜、冬野菜と作付けを変えてゆくので連作障害防止、土質とくにphチェック、たい肥作り、元肥や追肥(施肥というらしい)などを含む「営農計画」を立てて計画性をもってやる必要があるようだ。また、気象条件に応じた剪定、水やり、草取りなど、狭い畑でも結構難しかったり忙しかったりしている。

cameは北海道生まれですが、神奈川県では同じ土地から2~3種類収穫ができる。これが面白いし忙しいし難しい。

晴耕雨読という言葉は明治時代に日本で発明された和製四字熟語でらしい、中国からの輸入品ではないようです。