顛倒夢想と言う言葉は般若心経の中に出てきます

ブログの表題を顛倒夢想としたのは
幼いころからcameの身近に般若心経があったからかもしれません。
子どものころ、毎年のように親戚の葬式があって、お寺に行く機会がありました。
確か4年生のころかな一年間葬儀がなかった。今年は変な年だなぁと思ったことを覚えています。
法事の時お寺では、和尚さんと参列者が般若心経や修証義を唱和していました。
cameも大人に合わせて(お経にはルビがふってあるので)般若心経を唱えていた。ただ、途中でついて行けなくなるとどこまで進んでいるか訳が分からなくなって情けない気持ちになった。
多分、高校時代本屋で岩波文庫の般若心経の解説本を見つけました。薄っぺらくて安かったので、小遣いで買って読みました。
そして、初めてこのお経の概要を理解しました。内容が分ると暗記もできてきて、大人の人と一緒に唱えることができるようになりました。
同じ曹洞宗でもcameが育った北海道の山奥のと本州のお寺では違っていました。本州では法事の時、和尚さんが1人読経し、檀家衆は暇して座っている。違和感を覚えました。
しかしどうやらcameの田舎が例外のようで、少なくとも神奈川県内では和尚さんと檀家の人たちが一緒にお経をあげているのは見たこともなく、周りの人たちからも聞いたことがありません。

なぜ、同じ曹洞宗なのにこんなに違っているのか?謎だ。知っている人教えて!
同じ禅宗でも、臨済宗の般若心経は曹洞宗よりカネや木魚が調子を上げて少し賑やかです。ただ、川崎の某寺の和尚のお経は唸っているだけで、ちゃんと読み上げていませんでした。檀家の皆、知らないと思って舐めているのか?
奈良の長谷寺(真言宗豊山派本山) はどんちゃんどんちゃんと賑やかで迫力とスピード感があり、全く別のお経のようでした。川越の天台宗喜多院も元気でリズム感がはっきりした読経でした。
日本では仏教各派、特に法相宗・天台宗・真言宗・禅宗が般若心経を使用し、それぞれの宗派なりの解釈があるらしい。そうした違いがお経の唱え方に反映しているのかもしれません。誰か教えて!

ただし、浄土真宗は『浄土三部経』を、日蓮宗・法華宗は『法華経(妙法蓮華経)』を根本経典とするため、般若心経は経典として認めていないようです。

顛倒夢想とはひっくり返っていること

顛倒夢想は、一般的に「逆さま」と訳されているようです。 でもあまりに古くなって、いったい何が逆さまなのか分からなく なっていました。 目先の事柄や囚われて、本質を見失うことと言う意味か・・・ このブログではもっと幅広くとらえて、我々が世間の常識だとか通念などに縛られて、本質を見失っていると思うことも含めて、独断と偏見を恐れず、この言葉を使います。