日本仏教の顛倒夢想 その2-2 西欧科学からの批判に迎合し、行きつく先は地下鉄サリン事件

今日の寺院は、おおむね葬式や法事のための会場か、さもなければ観光目的の文化財の一種と化している。僧侶は、古風な衣装を着用し、経典の言葉を呪文のように唱える、不可思議な存在のように思える人もいるだろう。」しかし「近現代を通して日本の仏教は時代の最先端の科学との接点を持ちながら、仏教の可能性を問い直してきたのである。」(「科学化する仏教」碧海寿広 角川選書 1700円28p)との見解に従って私見を述べてみたい。
「科学に耐えられる仏教」の見直しの試みが江戸時代の前から、欧米との接触の中で続いてきていた。ただ、積極的な対応とは言えなかった。

しかし、明治時代にはいると欧米から流入した「科学」への対応が大きな課題として浮上してきた。すでに前項で述べたように、神仏分離令に発する混乱の仏教受難の中であった。その時代をどのように乗り切ったのか、またその中から地下鉄サリン事件にまでつながる系譜が育まれていった。西欧のもたらした近代「科学」と日本の仏教思想の相克について確認したい。

その前提として仏教と西欧近代「科学」の親和性についても触れておく。

その1「色即是空・無」の思想とゼロ/無限概念…

西欧の「科学」はゼロに目覚めてから著しく発達した。また科学実験の結果から真空の存在を見出すなどからキリスト教に比べて仏教の教えのほうが「科学」と親和性があるとの見方が生まれた。仏教界では西欧近代科学を活用して仏教哲学の正しさを証明できるのではないかという期待が生まれた。

その2「輪廻・転生」の思想と進化論…

キリスト教では人間は天地創造の最終日に神の姿に似せて作られた特別な存在であり、神から他の動物の支配を任されていると教えている。しかし仏教は輪廻・転生が前提としてあり、生まれ変わって虫になったりネズミになったりすることもあると説いていたので人間と動物の垣根は低く「進化論」も抵抗なく受け止めることができた。

次に西欧科学が仏教に突き付けた主な批判点を見てみよう。それは2つ、宇宙認識と大乗仏教の否定である。

その1、仏教の「宇宙観」。

果てなき虚空の中に巨大円盤(風輪)が浮かびその上にさらに水輪、金輪が乗っていて地上の諸相が展開しており、中央に須弥山がそびえていると言うものが仏教的な世界観であった。この説には西欧の知識人だけでなく、本居宣長など日本の知識人からも荒唐無稽と批判されている。すでに戦国時代に南蛮人が西回りと東回りの航路を使って両方から日本列島に到着していたわけで、地球(風輪)が球体であることは知れ渡っていた。

こうした誤りについて、ずーっと仏教界がほっかぶりしていただけである。しかしキリスト教だって少し前まで世界は巨大な水盤の中心にあって、水盤の果てでは海水が滝となって落下しているなどと考えていたのだから、似たり寄ったり。またキリスト教では地球は世界の中心にあるとし、これに対する異論は排除され時に処刑されることもあった。しかし仏教では風輪が世界の中心と言っているわけでもないので根幹に係るほどの「宇宙観」ではない。うやむやのまま?今では坊主も含めて誰もが、地球は丸く宇宙の中心でもないと思っている。

尤も、この仏教の宇宙観なるものも、釈迦牟尼が唱えたわけではなく(彼は形而上学的な問いかけには答えず、こうした問いかけそのものが正しい悟り、涅槃の役に立たないと言っている)仏教の本筋から外れていたのである。

その2、大乗非仏説・西欧の文献学の考証

「仏典の科学的研究」から発せられた大乗非仏説が日本にもたらされた。大乗仏教はもともとの釈迦の教えではなく、後世の僧侶の創作でありその教えは元の教えに比べて劣っている(大乗非仏説)という主張だ。文献学による考証をもとに欧米から提起された。これはスリランカのパーリー語で書かれた上座部の主張を上書きしたものとみることができる。上座部の教えは大乗を否定しているので結論は決まっている。

ところが、西欧崇拝の影響からか日本人学者や日本の仏僧からも大乗非仏説を説くものが現れた。現在も「科学的な研究結果により否定される内容については、それを受け入れて仏教の主張を捨てなくてはならない」とダライラマや佐々木閑はいう。CAMEもそこまでは同意できるのだが、仏教を科学的?なものに作り替えようとする人々も出てきて、今日までそのような活動を続けているのはいかがなものかと思うのだ。

西欧文献学による検証の結果、三蔵の全てを釈迦牟尼が語ったのではなく多くが後世の創作であること、中国仏教、日本仏教がもとにしている天台大師智の「釈尊は華厳、阿含、方等、般若、法華、涅槃の順番で経を説いたという「五時教判」は間違いであり、阿含経だけが釈尊の言葉を最も直接的に伝えるものである」と結論付け、現在その正しさは認められている。

それにもかかわらず、天台宗や日蓮宗の方たちが法華経が釈迦牟尼の最終の教えで、最高の教えであると胸を張っているのはいかがなものか、少なくとも天台大師智の「五時教判」に頼らず、新たな視点に立って経典を読み直し、再評価することが必要ではないか。

西欧の文献学の検証に悪乗りした人の中には「仏教の経典群は必ず、『是の如く我れ聞きぬ(如是我聞)』という枕詞がついている」と指摘して釈迦牟尼を語る「偽教」だという指摘もある。如何にもこの経典の内容は直接仏陀釈尊から聞いたものであると装う狡猾極まりない創り方だという。

仏教の根本哲学には諸行無常、諸法無我にあることはあまり異論がないと思う。この立場に立つと仏典も諸行無常であり、仏教も諸行無常であるからともに一所にとどまることない。経典が更新されたり、新たに創作されることのほうが仏法の根本思想に沿っている。そして、それが活力となって仏教の命脈を保ってきた、原動力であると考えることはできないだろうか。巻頭の「如是我聞」は時代と環境に対応して集合し仏教の経典として定めましたという印、仏教的な経典作成のしきたりであったとCAMEは考える。

キリスト教の聖書やイスラムのクルアーン(قرآن qur’ān、コーラン)は神や預言者が人類に与えたもの絶対真理であり一言一句変えてはならないと見なされている。仏典とは位置づけ、目指すものが全く違っていることを理解すべきだ。「偽教」と誹る僧や学者は釈迦牟尼の教えが理解できていない。

さりとて、明治以降仏教を西欧近代科学に合わせようとするあまり「仏教心理学」を立ち上げて病気が治るなど表層的な言揚げをしたり、催眠術と仏教の関わりを研究したり。座禅を組まずに薬物でインスタントな涅槃が得られると勧めたり。ついには座禅組まなくとも脳からアルファー波が出てさえいれば音楽鑑賞やゲームをしていてよいことにまでなってしまう。アルファー波は修養の結果脳波に現れた物理現象だが、その部分だけに注目して脳波の状態をコントロールできれば悟りが得られるなどという顛倒夢想に陥ってしまった人たちが煽動している。原因結果の誤謬?科学にとっても迷惑ではないか。

オウム真理教は顛倒夢想を典型的に実践した。宗教と(似非)科学を結んぶことに熱心だった。信者はヘッドギヤを付けて自分の脳波をコンピュータでモニタリングして波形を観察し修行と称した。ついに教祖は未来を見通すことができると確信した。教祖の思惑にそぐわない者をポア(=殺害)することも厭わなくなった。さらには自分の予言を成就すめために地下鉄をサリンガスで満たした。釈迦牟尼は人を殺せと教えたのか!根本理念ら余りにも遠い所へ行ってしまった。

さて、西洋の近代科学は彼らの唯一の絶対神(イエス、エホバ、ヤハゥエetc・・・)の存在、全知全能を証することを当初の目的とした。
何故、同じキリスト教徒同士が殺しあうのか、異教徒との戦い(聖戦)で大敗するのはなぜか。厚い信仰心と敬虔な祈りの生活を送る者が悲惨な生涯を送り、神を冒涜するものが富と特権を享受しているのはなぜか。本当に「神」は存在するのか?

人知を超えた神の意思や理りを究めることが当初の哲学・科学の狙いだった。聖書では神が人間に地球の支配を委ねたのである。その付託を実践するためにも自然界の法則を理解し支配・実践に寄与する科学が求められた。
しかし、神の存在を証明するはずの科学は探求するほどに、神の不確かさが増していく。地球は平であったものが球になり、天体のほんの一角を占めるに過ぎなくなってしまう。7日で世界は作られたはずが地球の歴史は億年単位であることが分かってしまう。

それゆえ、近代哲学の源流を作ったデカルトは方法的懐疑と称して「我思う故にわれあり」という結論を導いたが、それは神を証明するための前提となるベースづくりだったようだ。…不勉強なCAMEにはわからないの…いったいこの「我」と「思う」はどんな関係にあるのか、思わない我は成立しない。「思い」は私たちの身体内外的関係性に依存する。熱いとか、臭いとか、煩いとか、きれいだとか、早いとか、好きとか、腹減った、なんでもオーケー…死のその時まで「思う」は移ろい、とどまることない。・・・空ではないか?結局、自家撞着?・・・どなたか、教えてください・・・

科学の特性は諸事、物理的な現象に還元しバラバラにする(分析)そして再組み立てをする。諸事・諸物について知識と身体性に分離して知識の集積に焦点を当て、身体性を捨てたのだ…デカルトの意図は違っていたかもしれないが…

オウム真理教のたとえでいうならば、脳波(電気信号)に着目し、どのような電気信号が脳のどの部位からどのくらいの強度で出てくるのかを計測する。脳波という科学的な測定方法?で客観数値として修業のレベルを判定しようとした。

美しい景色を見た一瞬の感動なども脳波のアルゴリズムで説明することができるように思うかもしれない。(脳科学者の茂木健一郎氏は脳内にホムンクルス=小人が住んでいると言っている)しかし、ニューロンの伝達をいくらいじくりまわしても信号という断片の集積になってしまう。

個人の抱いたその瞬間の感動は身体感覚(視覚、聴覚、皮膚感覚)やそれらを含む諸経験の塊が感動を産んでいるのであって、データを集め分析をしても感動そのものにはたどり着けない。科学を極めても、生き甲斐とか人生観などはバラバラのパーツに分解され再組み立てされるだけであり、データ収集、組み立てのプロセスでは常に過去知、しかも往々に未知が隠蔽された過去である。

科学技術の急速な進展が高度な情報社会を生み出し、個人のデータを握られ管理されつつある。また、スマホやp/cを開けば既知の知識は簡単に取得できる時代になっている。科学の発達は人間の持っている身体感覚と知識領域のうち知識を急速にAIに置き換えつつあり、身体感覚はは置き去りにされてきているのではないか。

それにもかかわらず、相変わらず日本だけでなく世界中が子どもたちへ知識注入教育を進めている。知識はスマホやp/cで手に入る時代だ。それに支配されない、使いこなすために、数値や言語表現から漏れてゆくクオリア(質感覚)の涵養が求められているではないか、知識は理解を生むが今欠けているのは体全体で受け止める納得性だろう。必ずしも宗教である必要はないのだが、子どもたちだけでなく大人も含めて、身体感覚を養う場づくりが求められていると思う。

地下鉄サリン事件を繰り返さないために。

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camepost

元中小企業診断士、福祉サービス第三者評価者(東京、神奈川)、社会的擁護関係評価者、介護福祉経営士一級、