「日本仏教の顛倒夢想 その3 未来に向けた宗教への期待」    … その1 輪廻転生 輪廻を断つは不可能であるたとえ涅槃に至っても

…現在の日本の仏教では「輪廻からの解脱=苦の消滅」という仏陀の教えはすでに否定されているらしい。人には仏性が備わっていて念仏や題目を一心に唱えたり、座禅など修行をすれば極楽・浄土に行くことができる。そこを終点としたから涅槃がかすんでしまった??

…しかし…

CAMEは長く食品関係の仕事に従事していたので思うのかもしれないが、人間が食物連鎖の頂点にいるという意見に違和感がある。「一般に高次の消費者(=肉食動物)となるほど大型で個体数が少ない。」そうだが、その割に、頂点,にいるはずの人類の数が70億にも達しているのは多すぎではないか。

人間は毎日、食べ物を食らうことで生きながらえている。食べ物は生物の命の塊だ。米や野菜、魚、虫、哺乳類など動物の命を奪って作り出す。

食べ物から栄養素やカロリーの部分だけを抽出・分析するのが栄養学である。栄養学は、栄養・カロリー以外の要素、生き物の命を奪うことなどの事実を捨象して成立している。食べ物を作るに邪魔だから生き物の命を奪っているという事実は見えなくなってしまう。  農作物を作るために畑を耕して土中の生き物を殺し、農薬を散布して殺し、畑に出没すると言って害獣を殺したり、直接食べ物にならない命も含めて食べ物=命を私たちは食らっている。

ヒトが食らった食べ物は腸内細菌が分解してくれ、そのおかげで栄養分が体内に供給される。ヒトと腸内細菌は共生=共存共栄の関係にある。ヒトの体細胞は37兆個だそうだが、腸内細菌は100兆個といわれ、ヒトの体細胞の2.7倍もが腸内で暮らしている。

ヒトが死ぬ、火葬、土葬あるいは野垂れ死ににせよ、体は分解されて最後には原子に戻る。人の体を構成する原子の数は60×10の27乗個だそうだ。60兆の10兆倍だ (体重60キロの場合)。

ヒトの体は水素と酸素、炭素で主に構成されており、死ねば肉体は植物やバクテリアの餌・養分となり、根や茎/幹、花や種になる。分解が進めばついには水や酸素、炭酸ガスなどとなって地球上に広がって行く、今、あなたの体を構成する原子の何10億個かが死んだおじいちゃんやおばあちゃん由来である可能性は高い。牛や羊、イワシ、キュウリ、ミドリムシ、ヘドロの中の腐敗菌、新型コロナウイルスなどが由来の原子も私たちの体を構成している。

仏教では動物だけでなく植物にも仏生があると説く。しかし、キリスト教やイスラム教では、人間とそれ以外の生物の位置づけは神によって断絶されている。人間が地上を支配し利用する権限を神から与えられていると説く。動物の世界を弱肉強食として描くのも彼らの影響が大きいように思う。動物たちの食う食われるの関係は複雑であることから食物網と表現されることもあるようだ。

表面的には弱肉強食=強者が支配しているようだが、大きく地球の生命の循環として捉えるなら喰らい喰らわれるの関係は実際には共生関係にあると言えるのではないか。
そして植物だが、食物連鎖の考え方では植物は生産者で動物は消費者と呼ぶようだ。太陽と水の力で成長し自分の体を動物に提供して、その成長や繁殖を支える。

植物は動かない。種が落ちたところで生きて行く。そこで精一杯生きている。環境が悪くても文句を言わない。環境は簡単に変えられない。変えられるのは植物自身の生き方だけだ。植物は環境に合わせて自分を変えて生きている。畑を作っている人、花を栽培している人は気づいているだろうか、土の中にはおびただしい数の休眠種子が存在している。種が芽吹く環境の到来を20年、200年、中には千年以上待ち続けているものもあるという。例えば大賀ハスは2千年後に開花した。うん!確かに!植物の生き方は仏教の教えによく似合う。

ところでマネージメントの世界では食物は「原材料」であり加工され「製品」となって出荷販売され、小売店や飲食店を通じてヒトが消費している。この全体のプロセスにサプライチェーンと命名している。

「サプライチェーンを最適化する」とは収穫から販売までの全てのリスクとコストを緻密に分析しそれを実行することである。その過程での大きな課題の一つが、ロスの低減である。ロスは各過程での損耗や廃棄などから生じる。家庭での廃棄も視野に入れて検討する。物流を含むすべての企業間取引を含めて検討し実行するのだが、説明を簡単にするために一企業の例として挙げてみる。

今利益率5%の食品製造企業が原材料のロスを1千万円削減したら2億円の売り上げ増加と同じ経済効果があるなどと説明して実行の動機づけ、目標設定を行う。実はCAMEもそのような指導をしていた。

だが、食材は人類が奪った動植物の生命の塊であるという視点に立って、原料のロスは、命の無駄遣い。奪った多くの生命をドブに捨ることになる。だからロスを無くしましょう。という論理もあっていいではないか。しかし、経営指標として落とし込んで金額や数値で表すことは難しい。CAMEは経営指導の動機づけや目標設定に落とし込むことができなかった。非力・無力であった。

話を戻す。

元々の仏教では輪廻転生の教えを説いているが、例え涅槃の境地に達しても原子のレベルで見ると大きな地球の循環の中で終わることなくつながっており、輪廻は断ち切ることはできない。命は収奪と共生の中で育くまれそして滅する。その循環は終わることがない。

ヒトの魂が本当に極楽・浄土にたどり着いたかは誰も知らない。極楽・浄土があるとすればそこにはすでに過去からの善男善女の魂が阿弥陀如来や法華経を南無…と唱えることで成仏して夥しくも賑わしい。浄土にはお釈迦様をはじめ数十億の魂が滞留していることになる。否、山川草木悉皆成仏であるなら、ヒトだけでなく宇宙の原子の数ほどの動植物が成仏して浄土を満たしていると考えることもできる。

元々仏教では輪廻が苦の根源にあると説くが、むしろ生き物は輪廻の循環の中にあり続け、我は時たまヒトとして今存在していると考えるほうがCAMEには納得がいく。来世がゴキブリやカナヘビへの転生であったとしても、それを苦と思わないでよいではないか。