日本仏教の顛倒夢想 その3 未来に向けた宗教への期待

「神は死んだ」

「神は死んだ」ニーチェは『ツァラトゥストラはかく語りき (1883~1885年) 』の中で宣言をした。

全知全能の神なんかいない。最後の審判もないからそんなものに煩わされず、神に頼ることなく生きる意味なんぞ自力で肯定できるようになれ…ということだろう。これを彼は「超人」と表現しており「なんて大仰な、要は自力本願てことだろう」と突っ込みたくなるが、西欧社会の人々のキリスト教への依存がいかに根強く強固なものかを物語っているように思う。

彼の宣言は1927年にハイゼンベルクが不確定性原理、1987年にチャイティンが不完全性定理を証明し、1991年に宗教哲学者が「神は存在しない」ことを証明した。

しかし、欧米では多くの科学者が未だに神を信じている。彼らは神の不在を理解はしたのだろうが、納得はできていないように見える。

(ここでの「神」とは全知全能完全無欠の存在のことで、つまりゴッド、ヤハウェなどと呼ばれている存在のことであり、日本の八百万の神とは別物である。)

そのせいか、いまだに欧米の価値基準を世界に押し付けようとする性癖から抜けきらない。この世に絶対に正しいことなどない。すでに欧米の頭脳が証明しているにもかかわらず…

色即是空・空即是色 あるいは仏教の科学・数学との親和性

色即是空・空即是色とは仏教の基本的な教義であり、恒常な実体はなく縁起によって存在する、キリスト教の神についても、縁起の関係性の中での現象と見ている。目に見えるもの、形づくられたもの(色)は、実体として存在せずに時々刻々と変化しているものであり、不変なる実体は存在しない(空)。その原因(因果)が失われれば、たちまち現象(色)は消え去る。神なるものも関係性の中で成り立っているのであって、関係が変化すれば神も変化する。だから絶対神も空であり、仏教に絶対神は存在しない。

実は、量子力学にも 色即是空と同じようなことを表している公式がある。それが、特殊相対性理論の公式(E=m×cの2乗)。エネルギー = 質量× 光速 の2乗に等しい。質量とエネルギーが互換関係にあることを示している。それでもアインシュタインは「神はサイコロを振らない」と言ったそうだ。

私たちは物に触れたとき、目に見える、形もある、重さもある、掴んだりもできる。しかし、厳密にいえば私たちは“物に触れている”わけではなく、見えない磁力の力によって“掴んでいる”ような状態になっているのだ。

 実際に物質を構成する原子の構造を見ると、物質は99%以上が空白です。“スカスカ”で、「物」としてはほとんど何もない。何もないけど、質量がある。このことから分かるのは、人の思考や意識のエネルギーが、現実世界に物や現象を創り出すということだ。

量子力学によれば、全く何もない真空中でも常に極微のエネルギーのゆらぎ(ひも)が存在し、それがゆえに無からでも物質が生じるという。ただし、この場合の「無」とは「物質が無い」という意味で、その元となる「エネルギー」は存在している。

仏教で「空」と呼ぶものは、サンスクリット語でシューニアと言い、同時にゼロを示す言葉でもある。「空」と「0」の両義を表す語なのである。
  ゼロは 桁の空位を示すものとしての中東生まれたが「0の概念」はインドで育まれた。「空」を本質とする仏教がインドで起こったことは偶然ではなく「空」と「0」は思想でありかつ数概念なのだ。インドでは少なくとも12世紀までには1/0=∞ であることを知っていた。バラスカラという人が「多くを足しても引いても、何の変化もない。無限にして不変の神の中では何も起こらない」(「異端の数ゼロ」ハヤカワ・ノンフィクション文庫)と言ったらしい。

ゼロと無限はキリスト教世界で忌避された。認めてしまうと大地は宇宙の真ん中!かどうか定めようがなくなり、プラネタリウムのような宇宙観は瓦解してしまう。もともと聖書の記述に世界が半円ドーム型になっているなどとは書かれていないのに、アリストテレスの世界観を取り入れた結果だ。そのせいで善男善女を処刑したり投獄したり…

仏教もお釈迦さんから2500年その間、彼の教えと別系統の様々な思想や文化を取り込んできている。

色即是空=科学と仏教の親和性に自己満足することなく、未来に向けて、今一度原点を確認しようと言いたいのだ。

お釈迦さんはあの時代には超過激派だった。バラモンでもないのに修業を始めたり、女性や下層民を得度させたり、当時の常識ではとんでもない奴だった。凄いことをやったわけだ。だから、苫米地英人さんや佐々木閑さんのような仏教原理主義も良いだろう。しかしCAMEとしてはもう少し馴染みやすい教えがいいかなぁ~ お釈迦さんのやった 対機説法の復活がいいなぁ~

顛倒夢想 番外編

CAMEの先生である。都築治氏の文書「妄論に踊らされるミャンマーの若者」を先生の許可を得て「顛倒夢想」の番外編として掲載する。

この論文で先生が「妄論に踊らされる若者」と指摘していることに違和感を持つ日本人は多いように思う。

本年7月31日に日本経済新聞はは「今こそ暴力を終わらせ、民主主義への復帰を促す圧力を高める時だ」米国のデローレンティス国連次席大使は29日の国連安全保障理事会の会合で、ミャンマー国軍が同国の人道危機を悪化させていると非難した。一方で、経済制裁など今後の米国としての具体策についての言及は避けた」と報じている。

ミャンマーの若者が踊らされている、この「妄論」なるものについて先生の論文の後にCAMEなりの見解を示す。まさしく、平和ボケ、言葉ボケした日本人の顛倒夢想。

妄論に踊らされるミャンマーの若者

合同会社TCMミャンマー代表社員

中小企業診断士  都築  治

1 情報が少なくなっているミャンマー情勢

ミャンマーの情勢に関する報道が減っている。ユーチューバーによるミャンマーの映像を見る限り、現在のヤンゴン市内の状況はほぼ平常時の状態に戻っている。中華街やインド人街の露店の様子は人出で賑わっている。ショッピングモールが開いている。バスも走っている。工場も生産を進めている。しかし、各地の所どころでは、いまだに国軍と武装組織との衝突が止まない。

かつてネウィン時代、金融制度が破綻したことがあり、国民はそれを杞憂し預金を引き出してはタンス預金に走っている。そのため、現況では市中に紙幣が出回ることが少なく、進出した日本企業は賃金支払いや決済が困難な状況になっている。また、コロナウイルスの感染者が増大して来ている。これには国軍の政権奪取に反対した医師たちの職場離脱や、コロナ騒ぎの中でのデモ騒動も多分に影響しているものと考えられる。インドからの伝播も多いようである。アウンサンスーチーは、弁護士を通じて国民にコロナワクチンを打ちなさいと仰せ付ける状況にまでなった。

2 私、都築の立場

ここで、私の立場を明確にして置きたい。立ち位置を曖昧にしておくことは、ある意味で卑怯と思うからである。私は高校生時代、カールヒルティや河合栄次郎の著作を愛読したことがあり、左右の示威的な大衆活動を厭うものである。またストア派の哲学書を愛読したこともある。現在は原始仏教の経典を少しずつ繙いている。2015年の総選挙と今回の国軍の政権奪取については、NLDが過半数の議席を確保することは、国軍の25%の枠がありあり得ない、今回まさかクーデターを起こすことはないと明言していた。この点の不明を恥じ入るばかりである。しかし、2007年の騒擾事件とタンシュエ元首の院政問題については、私の公言通りの結果になり一部では大変評価された。

3 国軍とNLDの選挙戦術

選挙に関しては、国軍側USDPの選挙活動の拙さが目立つ。孫子の兵法書やデールカネギーの説得術の本が、ミャンマー語に翻訳されて市販されているが、選挙活動には活かされていないようである。この点、NLD側はシェークスピアの「ジュリアスシーザー」のアントニウスの演説よろしく、国民の感情に巧く訴えて選挙活動に活かしている。人間は理性以前に感情的な存在である。

2020年選挙では、一時は議員数を減らすであろうと言われていたNLDが、何故前回にも増して大勝したのであろうか。コロナウイルス騒ぎを効果的に活用したことも大きいが、88年事件で海外に逃れていた人たちが、テインセイン大統領の時代、2012年頃以降に大量に帰国したことも大きい。彼らは欧米流の民主主義の考えを身に付け、選挙のやり方にも知悉している。逃亡者でもあった彼らは、陰に陽に欧米由来の民主主義を称え、軍を批判して来た。

4 陰で活躍する人権活動家

現状では、国軍側が実効支配を続けている。挙国一致政府NUGは国際輿論に訴えてはいるが、米欧は経済制裁を科すことがせいぜいで、頼みの綱の参戦協力はまったく見込まれない。国民に対しては、武器を持って立ち上がれと激を飛ばしているようであるが、全面的な賛同を得られてはいない。国民の中には、武装闘争には反対な意見も少なくはない。抗戦には大義名分があるとしても、自分の子供が戦闘に巻き込まれるのを許す親は少ない。またNUGのロヒンジャ―に国民権を与えるとの考えも、仏教徒が中心の中では主力になり得ない。

私が日ごろ問題にしているのは、プロの人権活動家が紛れ込んで、純真な若者を操っていることがうかがえることである。事態が大きくなればなるほど彼らは潤う。総選挙直前までミャンマー経済は順調に発展して来ており、国軍による政権掌握当初は、無血クーデターと思われて大騒動が長く続くとは、多くの日本のミャンマー通は考えなかった。88年当時と比べると、明らかに生活レベルは向上していた。大騒ぎする要因は少なかった。

騒ぎを大きくすればするほど、国際輿論が味方になってくれるとデモ隊は考えたようであるが、その後の戦略もなかった。最初にバリケードを敷いたのは国軍側であったが、次にデモ隊側もバリケードを築き防御線を張った。デモ隊側がバリケードを築くことは、攻撃してくれと暗に催促しているようなものである。国軍側のバリケードとは意味が違う。治安部隊にがなり立てたり、女性用ロンジーのタメインで挑発したりしたことなども逆効果となった。しかし、このことはプロの人権活動家にとっては狙い通りになった。国軍の残忍さをアピールできたからである。けれども犠牲者は余りにも多い。

5 武装化する過激的若者

NUGの武器闘争に賛同した若者は、少数民族の武装組織の集落に逃れ軍事訓練を受けているが、少数民族の武装組織が一致団結して国軍に対抗することはあり得ない。カイン州の武装組織KNUは全面的にNUGを支援している訳ではない。大規模なシャン州の武装集団等は、中共の組織とつながっている。同国の圧力もありNUGとは共闘できない。国際輿論も武装闘争には賛成し難い。カチン州のKIAは以前からしばしば国軍と衝突していた。

 過激に走り過ぎると、最終的には国民からそっぽを向けられる。国民は少しずつ落ち着きを取り戻して来た。国軍側が完全に実権を掌握するのは、そんなに遠くではないような状況になりつつある。過激的な武闘派は、徐々に孤立的な傾向を深めることになろう。街に入って爆弾闘争等を続けることはテロ活動につながり、国際輿論はそのことに逆に反発する。

5 難しくなった和解

 国軍側とNLD側との和議は極めて難しくなっている。国軍側は、仮にアセアンが仲介に入ってもそれに応じることはない状況になってしまった。国軍側が焦っているとのメディアの報道と違い、私には国軍は自信を持っているように見える。国軍は、諸外国からのバッシングには慣れ切っている。現在の状況がこのまま状態で長引くと、済し崩し的に国軍が実権を握ることになると予測される。ロシアや中共が国軍支持を明確にした現在、抵抗活動が散発的にあっても趨勢は変わらない。犠牲者をこれ以上出さないためにも、効果の少ない武装闘争は止めたほうが良い。

(21.07.09)

CAMEの見解 「妄論」について…

2003年に我が国の国際協力事業団は「民主的な国づくりへの支援に向けて」という研究報告を出している。

その中で「民主化は制度を整えればよいというものではなく、民主化を機能させるシステム(政府及び市民社会のガバナンス)や民主化を支える社会経済基盤が あってはじめて意味のあるものになるとし、「本研究会では民主化の構成要素を①民主的制度、②民主化を機能させるシステム、③民主化を支える 社会経済基盤」の3点がそろうことが必要であるとしている。

実は、独立後のビルマ(現 ミャンマー)は何度も文民政府が樹立されている。残念なことだがそのたびに社会が混乱して国軍が乗り出して政権を掌握し世情が安定したところで民政移管をすること繰り返してきた。文民政府が樹立されても内部抗争や汚職・腐敗、経済混乱が広がるのだ。なぜか、

ミャンマーは国際協力事業団の指摘する民主化の構成要素①民主的制度、②民主化を機能させるシステムはずいぶん以前から準備できている。しかし、③民主化を支える 社会経済基盤がなかなか整わないのである。

まず、多民族国家であること、連邦内には130以上の民族が暮らしている。その中には今も武力闘争を続けている人たちがいる。治安を維持しているのは国軍であり、今も国軍兵士が戦死しているという実態がある。武力闘争している少数民族は国軍に発砲し不利になると国外(タイ、ラオス、中国など)に逃げるなどしてなかなか和平に応じようとしない。

民政移管を目指したティンセイン大統領が対立する少数民族に大幅な譲歩をして和解し、欧米に亡命していたミャンマー人にも帰国を促した。西欧世界は歓迎し日本も活発な投資を行うなどして経済的には豊かになってきた。もちろん武装少数民族に対しても選挙妨害を最小限度に抑える自信ができたからだろう。社会経済基盤の内、経済に関しては目途をつけ、その成果を掲げて国軍は総選挙を実施した。しかしスーチーさんのNLDに大敗した。

国軍は概して庶民から嫌われている。国軍は今も戦死者を出し続けている。警察も国内の葛藤・憎悪を抑えるべく治安の維持にあたっている。その警察も嫌われている。国内の多数派であるビルマ族の内部にも相互の不信や憎しみ対立がある。これが今まで、民政移管後の政府が内部衝突を起こして国政が混乱した一因とCAMEは考えている。

彼らの中には外国の勢力を引き入れて優位に立とうとする人たちもいて、人々を煽動する。国内に外国の勢力を引き入れることは国亡につながる。歴史の教えるところだ。

今回の軍事クーデターは「総選挙のルールをNLDが守らなかったのではないか、調査せよ」という軍の要求を拒絶したことが発端になっている。国軍が指摘する「不正行為」が選挙結果にどの程度影響したのか、実際は大勢に影響なかったのではないかと思う。

しかし、相手が国軍だろうが誰だろうが、不正行為について告発があれば受理し調査するのが法治国家のあるべき姿だろう。なぜ、スーチーさんは調査を拒否したのか、残念だ。国軍を軽んじクーデターの口実を提供してしまった。

一部「民主派」は国民に武器を持って立ち上がれと檄を飛ばしたが、これが効果を発揮するのは国軍が分裂して対立が起きて内戦になるときだけだ。その時は望み通り、外国から治安部隊が来るかもしれない。

そうなれば大量の難民が周辺国や欧米、日本に押し寄せ、ミャンマーは最貧国に逆戻りするかもしれない。しかし、国軍は一部クーデターに反発した部隊もあったようだが割れることはなかった。

「アラブの春」を覚えている人もいるだろう。その再現は誰も望んでいない。独裁政権を倒して民主政治を実現するはずが、地獄を作り出し、今でも難民がヨーロッパに向かっている。

民主化は制度を整えればよいというものではなく、民主化を機能させるシステム(政府及び市民社会のガバナンス)や民主化を支える社会経済基盤があってはじめて意味のあるものになる。

まさに都築先生の指摘どおりミャンマーの若者は「妄論に踊らされた」のだ。

軍事政権が主導した前回選挙の後もミャンマー経済は安定的に成長を続け経済基盤は固まりつつあった。今回の総選挙は軍主導ではなかった。しかし、国軍は選挙への不正な介入をほとんど行っていなかったようだ。不正行為を行ったのは主にNLD側であった。勝つことに熱中して勝つことの目的をなおざりにした。まさに顛倒夢想。残念だ。

民主制度は権力者も少数民族も庶民も法の前には平等であり、権利には義務が、自由には責任が伴う。

こうしたことは、今の日本では当たり前とみんな思っているようだが、民主制度を支えている社会経済基盤を作り上げてきたからこそ、当たり前になったのだ。今後も不断の努力により維持されるものなのだとCAMEは思う。