日本仏教の顛倒夢想 その2-1 廃仏毀釈は日本を一神教の神聖国家に作り替えることを狙った」

明治政府の廃仏棄釈(=神仏分離令)については…必ずしも仏教弾圧とまでは言い切れない。むしろ宗教界の神道側の過剰反応と寺請/檀家制度に対する一部住民の反発により起きた混乱の中で、各宗派は僧侶の神職への転身。大名、富豪などの大口の寄進や寺の所有地からの収入の激減。さらには政府に土地や財産を没収されるなどで危機に直面した…と言う説があるがCAMEは疑わしく思っている。
明治政府は西欧諸国が全て一神教(キリスト教)国であることから対抗上天皇を中心とした一神教国「神国日本」に作り替える必要があるとの思い付きで、仏教と神道を切り離し神道国教化に着手したのだと思う。新政府のトップは口では尊王攘夷と言いながら、天皇を隠で「玉(ぎょく)」などと言ったり、権力を握ると手のひら返しの確信犯で攘夷を捨て積極的な外交を進めたような連中である。節操などは持ち合わせておらず、信心深かったとも思えない。明治政府は徳川や前田家などの官僚を集めて政策立案、行政執行を進めていたのが実態という。(NHKドラマに出ている渋沢とかもその一人)薩摩藩士はお巡りさん、長州の奇兵隊には斬首されるものも出るなど、倒幕後の恩恵はショぼかった。

当時の庶民は天皇の存在さえ知らないものも多く、一神教など望んでいたわけでもなし、現在の状況を見ても分かるように日本の風土になじまなかった。
この場当たり的で時代錯誤な政策が上手く行くはずなく、約10年でポシャった。その経緯は以下の通り。
…明治元年(1868年)、明治新政府は「王政復古」「祭政一致」の理想?実現のため、神道国教化の方針を採用し、それまで広く行われてきた神仏習合(神仏混淆)を禁止するため、神仏分離令を発した。明治2年(1869年)6月には、神祇官は太政官から独立して、行政機関の「筆頭」に置かれた。明治4年には神祇省となり太政官の下になり、さらに明治5年3月14日(1872年)の神祇省廃止・教部省設置。明治10年(1877年)には教部省も廃止し、内務省社寺局に縮小され、神道国教化の政策は放棄された。代わって「神道は宗教ではない!!」ということにした。…(この項はウイキペディアによる)
明治政府のご都合主義、軽率な政策はしかし日本の仏教に深刻な影響をもたらした。 今でも、その傷跡が残っている。
興福寺と春日大社の分離は奈良公園を生み出したが(その間の苦闘は大変だったとしても)まだまし。寺社巡りなどの趣味がないCAMEだが仕事がらみで立ち寄った長野県の戸隠、大分の英彦山、神奈川の大山など、かつて大勢の僧侶がいた宿坊の連なりなどが茫々たる空き地となって、そのまま参道脇に残されていたりする。今なら国宝級の仏像や文化財が薪となったりゴミとして捨てられ、廃寺となったところすらある。
こうした苦境への対策のひとつが庶民の葬儀を盛大に行うことだった。それにより経済的基盤を確保を進めた。もちろん唐突に始めたわけではなく、それなりの長い歴史がある。
僧侶が積極的に葬式にかかわるようになったのは室町時代になり、旧来の大寺院が没落し、代わって禅宗が広まってからである。高級武士層に禅宗の荘厳な葬式が大いに人気を博したことが、発端だった。武士は基本的に戦士であり、つねに死を意識せざるを得ない。それが葬式に対するつよい関心を呼び起こしたらしい。
禅宗が葬式をおこなって栄える事態を見て、今度は浄土宗が葬式をおこなうようになる。さらにそれにならって、すべての宗派が葬式にかかわることになっていく。この時点で、葬式仏教は、高級武士層にとどまらず、民衆にも及んでいったのである。
神仏分離の混乱の後、日本の人口の増加、貨幣経済の一層の浸透、各宗派の檀家の増加により葬式の数も増えそれに伴って寺の収入も増えた。お寺の経営も一息ついた。そして多くの寺と僧侶が今も葬式・墓守業に精を出している。

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元中小企業診断士、福祉サービス第三者評価者(東京、神奈川)、社会的擁護関係評価者、介護福祉経営士一級、