日本仏教の顛倒夢想 その1 明治維新の前

前回とは言っても1年前になってしまったが、日本のお寺があたかもお坊さんの所有物のようになっているという顛倒夢想について書きました。寺は本来檀家の所有なのだが、いつの間にか、坊さんの家族が占有し続け代を重ねることで、檀家は所有者ではなく利用者になってしまったのか??日本の仏教が葬式仏教になり、明治以降は坊さんが公然と結婚・子供を作り、寺の跡継ぎにするようになったからだ。この状況を踏まえて「現代に相応しい大乗仏教を超える新たな思想を打ち立てる時ではないか」「般若心経を唱えているお坊さん、自身の寄って立つ基盤を明確に示して欲しい。堂々と、今の在り方は「顛倒夢想」ではないことを私も含めて檀家衆に語って欲しいと切に願っています。」と結んだ。

そこで今回は、明治以降の宗教思想・論理の再構築に向けた挑戦について振り返ってみる。
日本に仏教が伝えられて以後、時代状況に対応した改革が重ねられ、新宗派の導入・誕生などしてきた。
この経緯についてはCAMEより詳しい人も多いかと思うが、すでに知っていると思う人はこの項を飛ばして次回の…「日本仏教の顛倒夢想 その3 未来に向けた宗教への期待」…に読み進んでもらって構わない。

日本の仏教の歴史を大雑把にとらえると、奈良時代には海外から来た新思想として国家鎮護の担い手だった。平安時代には真言、天台などの密教の即身成仏、一切衆生救済、加持祈祷により心身の病を救うとして広まった。その間神仏習合思想も広がる。鎌倉時代には浄土宗、禅宗、日蓮宗、時宗などが生まれ、上流階級のものであった仏教は武家や民衆にも普及し大衆化が進んだ。
とりわけ神仏習合は儒教や道教など中国の思想も取り込みつつ「天道(おてんとうさま)」の観念を社寺が共有し、教義も行動様式も異なって見える諸宗派だが根本は同一の思想的枠組にあるという日本特異な宗教観である。(西欧でもカトリックと古代ギリシャ哲学の融合の試みが1453年東ローマ帝国滅亡を切っ掛けに進められていた=中世ネオプラトニズム…どこでも似たようなことをやるものだが、根付くことはなかったようだ。ちなみに日本では1467年に応仁の乱が起きており、天道思想もこのころから定着してくる)

神仏習合により本地垂迹説やその逆説など見方は多少?違っても上下を分かたず神社を含めて各宗派の根本は変わらないことが共有されていった。その結果、日本列島内では欧州で見られるような他宗派虐殺や宗教戦争なぞは起こらず、宗論(=ディベート)を行うなどで争いを収めた…一向一揆などは宗教戦争ではないし、島原の乱の原因も宗教対立ではないと思う。当時はキリスト教も「お天道様信仰の一派」と受け止められていたし、ザビエルたちもエホバを天道様と訳して布教したのだ…しかし島原の乱が決定的な契機となりキリスト教禁圧につながった…

神仏習合は、江戸時代を通じて治安安定の基盤をもたらした。 (キリスト教や日蓮宗の一派など一部で抵抗し続け弾圧の対象となったが、一神教には多くの人たちがなじめなかったのだろう)見方を変えれば、このような変転の中で日本の仏教が釈迦の教えとは、はるかに遠いところに来てしまっていたともいえる。

檀家制度が確立したのもお天道様により宗教対立が止揚されたことで可能だった。

しかし、明治に入って仏教界は二重の環境変化に襲われることになる。ひとつは明治政府の神道国教化政策による神仏分離(廃仏毀釈)。もう一つは欧米から入ってきた科学による批判である。これらに対してお坊さんたちも手を組まねいていたわけではないが、神仏分離の衝撃を超えた新時代を代表するような新宗教諸派の出現は都市化の進展を待たねばならなかった。

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camepost

元中小企業診断士、福祉サービス第三者評価者(東京、神奈川)、社会的擁護関係評価者、介護福祉経営士一級、