僧侶の顛倒夢想

坊さんは毎日、勤行(お寺の本堂等でお経を唱える)に励んでいるはずです。

だが川崎にある臨済宗寿〇寺の坊さんは一昨年、親戚の法事のとき「魔訶般若波羅蜜多…ムニャムニャ、ウニャウニャ…ギャーテーギャーテー」と手抜き読経をやらかした。噂に聞いたことがあったが、本当にムニャムニャ経をやるのでビックリ。CAMEが施主だったら坊主の頭をポカリするところ。まあ、こんなのは例外と思いたいです。まあお経が聞き取れない檀家衆にも責任があるとも思います。

さて「お寺は誰のもの?」と問われれば十中八九の人は「住職のもの」と答えるのではないか、しかしこれは間違いです。お寺は檀家のもので、あくまでも檀家が力を合わせて維持するものです。お寺を建て皆で清掃し、お金を出し合って建物を維持し、そこに宗派の本山から供養の専門家として住職を招き入れるのが本来。

仏教ではお坊さんは出家する(=家族、財産、社会的な地位等をすべて捨てる)ことが前提で、日本以外の国々の僧侶は皆「出家」しており、結婚して妻や子どもと暮らしているなどありえないのです。まして住職の座を代々世襲すること等トンデモナイ「破戒」です。

この檀家制度は、江戸幕府が強制的に作り、人々に押し付けたものです。幕府にとってはキリスト教排斥の手段であり、寺の檀家制度に戸籍制度を肩代わりさせることで行政コストを圧縮できる一石二鳥てあったと思われます。寺にとっても、檀家が増えて他宗派に横取りされない仕組みで、地域の人々の身元保証という末端の行政事務を担うことで、社会的な地位の安定を得ることにつながった。今時は信教の自由という考えが浸透しているのでトンデモナイことかもしれません。

しかし、当時の人たちの立場からは、寺が葬儀を担い、死別による家族の悲嘆や孤独感、絶望感、自責の念などからくる精神的、肉体的な苦痛を和らげて 日常生活を支える役割を持っていて、地域コミュニティの中心として会合や祭りの場を提供していたし、さらに、寺子屋で教育を施したり、身寄りのない子どもや老人を収容すると言った地域福祉なども行っていました。

CAMEの曾祖母は隠居後、北海道の山奥で庵を立てて念仏三昧の暮らしをしていたのですが、あるとき駆け落ち?した坊さん夫妻が助けを求めて転がり込んできたそうです。曾祖母は哀れに思い夫婦のために住まいを与えて、寺を起こしました。今では多くの檀家を抱え、本堂には曾祖母の木造が置いてあり、寺の開基(創設)者として祭られています。住職は駆け落ち?してきた夫婦の子孫が代々継承しています。CAMEは僧侶が妻帯し、あたかも寺を私有しているごとく住職の座を子孫に継承させる仕組みは間違っていると決めつけるつもりはありません。子どもが住職の座に就くためには仏教の知識や修行を積んで本山が認めるレベルに達しなくてはならないし、檀家も本山から訳の分からない僧侶が派遣されるより、慣れ知った坊主の息子が継承する方が安心できるというものです。

ただ、本来の出家の形がまるっきり霧消した今の仕組みは、顛倒夢想そのものであると思います。今、檀家は減り続け、お寺の経営も行き詰っている所が多いようです。いろいろ対策は立てられるかもしれませんが、根本が顛倒しているままでは何をやっても小手先の対処としか言えません。

現代に相応しい大乗仏教を超える新たな思想を打ち立てる時ではないかと思います。

毎日、般若心経を唱えているお坊さん、自身の寄って立つ基盤を明確に示して欲しい。堂々と、今の在り方は「顛倒夢想」ではないことを私始め檀家衆に語って欲しいと切に願っています。

投稿者:

camepost

元中小企業診断士、福祉サービス第三者評価者(東京、神奈川)、社会的擁護関係評価者、介護福祉経営士一級、